現在のマニラと、東京の違いは、こういうところかもしれないな、と気づいたのは、12月13日に小田嶋さんのコラムを読んでいたときです。
この一文を読んで、たしかに私も息苦しさを感じるのは、同じところだなと共感したんですよね。
「現代の日本人は、自分が他人に迷惑をかけることを死ぬほど恐れている一方で、他人が自分に及ぼす迷惑を決して容認しようとしない。この点においてのみ言うなら、私は、昭和の社会の方が住みやすかったと思っている。まぁ、他人に迷惑をかけることの多い人間にとっては、ということなのだが」
「ニコニコしているのは、幸福な日本人だろうか」(2019年12月13日)小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」~世間に転がる意味不明(連載「日経ビジネス」オンライン連載)
11月に日本に一時帰国して、一年ぶりに東京都内の電車を利用し、不機嫌そうなおじさまの多いことに東京らしさを感じつつ、平日朝の通勤時間帯に浜松町駅で東京モノレールに乗り換え、羽田空港行きの列車を待って、行列に並んでいたときのことです。
到着した電車に乗り込んだら、満員すぎて、私の身体が半分ほど押し戻されてきたので、あきらめて次の電車にしようとしたら、後ろから、マスクをかけた不機嫌そうなおじさまから「お姉さん、並びなおすんだよ」と声がかかりました。その先頭のおじさまの後ろにはすでに10人以上の人が並んでいます。「うわ、この人、なんか感じ悪いな」と思ったのですが、どうして自分は、この状況に違和感を感じたのか、うまく言語化できていませんでした。
言い方がキツイからかな、とぼんやりと考えていたのですが、今回、小田嶋さんのコラムを読んで、ああ、これね、と腑に落ちました。
マニラで生活してみると、ルールがあっても、臨機応変な対応が迫られることが多いため、寛容にならざるをえない状況があって、それは時には不条理を感じるほどのデメリットでもあるんだけど、だからこそ、他者や物事に対しての寛容度が上がる気がします。
(寛容というよりも、諦めといったほうが近いかもしれません。。。)
そして最近マニラでも似たような場面を見たのですが、そのときには、なぜか不快感を感じなかったんです。
ショッピングモールへと続く細い一方通行の歩道に、逆方向から入ろうとしている20代の女性に対して、60代くらいの女性がすれ違いざまに”Exit only!”とちょっと怒った声で呼びかけ、言われた相手が恐縮したように”Sorry!”と言っていたのですよね。 (実は私も20代の女性の後ろにくっついていたのでした。。。)
彼女たちの、こんなに短いやりとりから、私が不快感を感じなかったのは、年上の女性が年下の女性のマナーをたしなめる響きがあったからだと気づきました。(直接、自分が注意されていないから不快感がなかった、ともいえるかも)でも何よりも、その年上の女性が、彼女自身の利害にフォーカスして発言していなかった気がするんですよね。
浜松町の駅で、年配の男性に忠告されたとき、私が感じたのは、旅行者の無知やマナーの悪さをたしなめるような響きではなく、「俺の利益を侵害するな(俺は、次の電車に一番最初に乗りたいんだ)」という狭量さであり、彼の年齢に相応しいとは思えないその狭量さを不快に感じたように思います。
でも本当のところ、あのおじさまがどう考えていたのかは分かりません。私の個人的な憶測にすぎず、なんとなく不快だったという曖昧な記憶が残っているだけですから。そして、なぜか私はマニラに昭和を感じるので、よけいに小田嶋さんのコラムが響いたのかもしれません。 それにしても、 同じような状況なのに、そこに「他者への愛」があるか、ないかを、言外に感知してしまう自分の感覚が面白く、でも怖いなと思ったりしました。