読書会(勉強会)カウントダウンコラムPolandふりかえり

18/04/17(火)読書会まで8日(思考の柔軟性、アウシュヴィッツ②、ワルシャワの有料トイレ)

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有料トイレで自分の思考に柔軟性が欠けていることに気づいたもんざです。

クラコフ中央駅のトイレは有料(2.50ズロチ=約75円)なのです。金曜に使用して、そのことにも驚いていたのですが、日曜の朝に再び利用した時、お金を入れたにも関わらず、入口のゲートが動かなかったのです。まだ朝の6時前だし、係員さんらしき人も見当たらず、どうするべきかと考えていたら、若い女性がやってきました。「お金を入れたんだけど、ゲートが動かないの」「あら、それじゃ、バーの下をくぐるとか?」ああ。そうか!頭をガツンと殴られたような気がしました。

さて、課題です。

「何かうまくいかないのは才能不足が原因だと思うか?」

自分に才能があるとか、ないとかに関わらず、予想していない結果がもたらされることもあります。トイレの入口のバーが動かないとか、ホテルの部屋のドアが開かないとか。そういう時に、どれだけ柔軟に思考を拡げて解決方法を見つけられるかが重要なんじゃないかな、と考えています。でも、それを才能とは呼ばないと思うんですよね。

アウシュビッツ博物館で、しきりにガイドの女性が強調し、非常に印象に残っている会話があります。

ガイド「この象徴的な写真を見てください。彼らの表情は何を表していると思いますか」

参加者「恐怖です」

ガイド「いいえ。私はそう思いません。これは困惑です」

たしかに訳も分からず、突然に収容所に連れてこられて、一体全体これから自分がどうなるのか分からない時に感じるのは「恐怖」よりも「困惑」でしょう。

人種や年齢や性別といった自分では変えることのできない属性によって、勝手に誰かに選別されて「お前は日本人の中年女だからガス室で殺すね」みたいな状況を想像したら、あまりの理不尽さに虚しくなりました。

しかし同時に、この世界は、いつでもそのような事が起こり得る世界です。そして、私が日本人として生まれて、この平和な時代を享受できていることは、全く私の才能とは関係がなく単なる幸運に過ぎません。

皆さんは、どのように思われるでしょうか。

また明日もよろしくお願いします。

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