書きたくなければ、無理に書かなくてもいいのかもな、とも思うもんざです。
先日「TEDxUTokyo」というスピーチイベントを東京大学で見てきました。
これは2012年にTEDからライセンスを受けて始まった大学で開催するイベントで、
今年は6回目なのだそうです。
9名のトークセッションは、それぞれに興味深いものがありましたが、
イベントの運営は6回も開催しているとは思えないほど、不備があり、別の意味で驚きました。
「大学生がボランティアで頑張って運営しています!」とイベント運営の責任者らしき若い男性がステージのオープニングトークで言っていましたが、そんなことを言う必要があったとは思えません。学園祭などの無料イベントならまだしも、学生3,000円、社会人8,000円の料金を徴収しているのですから、裏方らしくプロフェッショナルに徹してくれたら、もっと格好良かったのになぁと、ちょっとため息が出ました。
TEDという名前が一人歩きをして、すでに惰性で継続しているだけなのでは?という疑問も浮かびました。
そして、9名のスピーカーのうち、実際どのくらいの人が本当に6回目の「TEDxUTokyo」の舞台でスピーチをしたいと思っていたんだろうって考えたんです。たぶん、事務局から頼まれて仕方なく話すことに決めたって人もいるんじゃないな。
みなさん、それぞれに実績があり、すごい方だったんですよ。
でも、伝える欲求が希薄な方もいたんですよ。とりあえずプレゼンの形式は整っているかもしれないけど、あなたが今ここで語る必要があるのか、っていう必然性が伝わってこなかった方がね。
そういうモヤモヤが感じた記憶を抱えつつ、この本を読んでいたら、冒頭の言葉が浮かんできたんです。
「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 」
帚木蓬生 (著)
ノーベル賞を受賞したサミュエル・ベケットを2年弱治療した精神科医ビオンのエピソードが書かれていました。
「(ビオンは)2年間に及ぶ治療の中で、言葉の限界性、コミュニケーションのずれに気がついたのではないでしょうか。ありきたりの言葉では、ベケット同様、心の内に入っていけないもどかしさを感じた可能性が大です。(中略)言葉は奥深いところから発せられないと、表面で矢尽き刀折れるという実感です」(P.52)
「言わなきゃいけないから、とりあえず話す」
「書かなきゃいけないから、とりあえず書く」
そんなふうだと、もし、それらの言葉を受け取った人がいたら、結局のところ、あとに残るものはモヤモヤとしたもどかしさになるんですよね。
それなら、言いたくない人は無理して言わなくていいし、書きたくない人は、無理して書こうと思い込まなくてもいいんじゃないかなぁ。でも社会人として生活をしていくとなると、話したり読んだり書いたりしないわけにもいかないから、訓練が必要なのか・・・アタマが痛い問題ですね。
ちなみに私がなぜ書いているかというと、話すことが不得意だからです(笑)
そして、こうして時々書くことが感情や思考の整理になって、ストレスの解消と気づいたから、勉強会のしくみを使って継続的に書くようにしています。
自分の考えを、自分の言葉で書くことが、少しづつでも、もう少しできるようになるために諦めず継続しようと思います。
それでは明日もどうぞよろしくお願いします。