読書感想8.1. ふとした気づき8. Trial&Error

第33歌から好きな一節を選ぶ(神曲 煉獄編)

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読書感想
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14世紀イタリアで大人気となり、現代でも読み継がれる古典、ダンテ・アリギエーリの「神曲」煉獄編を読み終わりました。今回は、煉獄編の最終章、第三十三歌から好きな一節に関連して、気づいたことをまとめてみました。

選んだ一節

私が選んだ一節は、ダンテが最愛の人ベアトリーチェにした質問のひとつ。理由は、現実に私が抱える問題とシンクロする気がしたからです。

しかしなぜ、私が待ちこがれたあなたのお言葉は理解に努めれば努めるほど逃げてしまい、私の理解力を越えたはるか向こうの上の空を飛ぶのでしょうか?<八四>

神曲 煉獄篇 (河出文庫) ダンテ・アリギエーリ (著), 平川祐弘 (翻訳) 第三十三歌

選んだ具体的な理由を述べつつ、結論としては「内的自己認識と外的自己認識のズレを認識する視点を持つ困難さ」「今後の自分の行動指針」を、この一節から学べたことを説明してみます。

それぞれの対話

私が、ダンテとベアトリーチェのこの問答を面白いと感じて選んだのは、煉獄篇に書かれた内容と、先日受講した講義で見た、受講生Aさんと先生の対話に共通点を見出したからです。

順を追って説明しましょう。煉獄篇で、ダンテの問い(あなたの説明が、なぜ自分には理解しにくいんだろう?)に対してベアトリーチェは、過去にダンテが信じていたものが、真実と隔たりがあるからだ、と語ります。彼女が示すものが正であり、彼がまだ自分の誤りに気づいていないからだと言います。しかし、ダンテは自分に、そのような過ちを犯した記憶がないと言うと、彼女はさらに、その忘却がよそ見をしていた証拠であり、罪の証拠だと重ねて説明します。(ベアトリーチェは神のつかいってことになってます)

つぎに現実に私が体験したことを説明します。参加したオンライン講義で、受講生Aさんは自分の現状と問題点と、自身の考えを説明しました。それに対して先生は、Aさんが囚われている思考から離れられるように、別の視点を提示しました。しかしAさんは、先生の言葉に心を動かされながらも「そうなのかなぁ」と、自分自身が囚われていることに、まだ気づけていない様子でした。

共通点をみつけた

ダンテとAさんに共通するのは「なぜうまくいかないのだろう?」という疑問と「自分は間違ってない(頑張っている)」という感覚と発言です。私の立場は、約600年後の神曲の読者であり、講義では、先生とAさんの対話を聞く大勢の受講生のうちのひとりです。他人同士の対話を距離をおいて、他人事として眺めているため、共通する構造がつかめたのだと思うのですが、内的な自己認識(自分をどのように認識しているか)と外的な自己認識(他人が自分をどのように見ているのか)がズレてしまうというのは、本当に解決が難しい問題だなと再認識できました。

私が抱える問題との接点

自分自身の体験にさらに引きつけて考えると、Aさんの説明を聞きながら、この前、自分の5つ年下の妹から「姉ちゃんは私と違って頭が良いから」と言われ、私自身は自分が頭が良いと感じたことは一度もないので、彼女がそういうふうに感じていたことを知って衝撃を受けたことを思い出していました。

私の妹は現在、結婚生活で悩みを抱えており、彼女はそこから脱却する方法を模索して右往左往しています。私としては、彼女の気持ちも分かるので、できるだけサポートはしたいけれど、上手なアドバイスができていない状態です。定期的に「調子はどう?」と声をかけてはいるのですが、彼女と会話をしても、どこか気持ちがすれ違っている気がしていました。

Aさんの問題

Aさんが語った以下の内容は、まるで自分の妹の言葉のようでした。「自分と違って姉は優秀なのに」「母や姉のようになりたいけどなれない(理解してもらえない)」「他の人と同じようにできないことがつらい」といったもの。

また「勉強することは好きだけど、私なんかが学んでも社会の役に立つのだろうか。意味はあるのだろうか」という質問は、まさに私も同じ疑問を常に抱き続けているもので、胸が痛くなりました。

正直なところ、以前から講義でAさんが個人的な質問をすることについて、とても不思議に感じ、その態度を疑問視する部分も私の中にはあったのです。しかし、Aさんの問題は、実際にAさんの個人的な問題ではあるけれども、すべての人に共通する普遍的な問いを含んでいると気づき、心の中で密かに彼女を責めていた自分を恥じました。

結論

分からないことを素直に分からないと言ったり、自分の弱さや欠点を晒すことを、私は恥ずかしいと感じてしまうことが多いのですが、その感覚が間違いをする人を赦せないという感覚や自己責任論に繋がっていくのかもしれないと思い至りました。

講義のなかで、先生が繰り返しおっしゃっていた、日本の社会は、働けない人も受け止められる制度が作られたゆとりがある社会であるから、自分を追い込んでムリに働かなくてもよく、今、自分にできることを楽しめばよいという言葉が、苦しんでいるAさんの心に届いてほしいと思います。

どんな人でも生きていること自体に意味がある、と頭では理解していても、実際に行動レベルで他人に伝えられる人は私自身も含めて多くないでしょう。私は、悩んでいる人、苦しんでいる人の心を想像して、言葉で寄り添うことを、まず身近な人から実践していくことを、今後の行動指針にします。

ベアトリーチェがいった、「より気にかかる事があると記憶の力はしばしば奪われてしまうものです、きっとその心配で彼の智恵の目はくらんだのです。<一二六>

神曲 煉獄篇 (河出文庫) ダンテ・アリギエーリ (著), 平川祐弘 (翻訳) 第三十三歌

参考

ベアトリーチェ:イタリア中世末期の大詩人ダンテが『新生』『神曲』などに詩的に描いた女性。清新体派の代表的詩文集『新生』のなかでは、ダンテとベアトリーチェがそれぞれ9歳のときに初めて出会い、さらに9年後にまた巡り会ってダンテは詩的霊感を受けるが、まもなく彼女は亡くなってしまう。『神曲』のなかでは、「地獄編」から「煉獄 (れんごく) 編」にかけて、ラテンの大詩人ウェルギリウスの霊魂に導かれてダンテは彼岸 (ひがん) の世界の旅をするが、煉獄山上の楽園から「天国編」にかけては、ベアトリーチェの霊魂に導かれて神の真理をかいまみる。このことから、ベアトリーチェを「愛」の寓意 (ぐうい) と解釈するのが一般であるが、彼女を実在の理想の女性とする説もある。フィレンツェ共和国の名門フォルコ・ディ・リコーベロ・ディ・ポルティナーリの娘ビーチェがそれであり、彼女は銀行家シモーネ・ディ・バルディに嫁して、1296年6月8日に31歳で没した。

“ベアトリーチェ”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, (参照 2021-02-16)

懺悔:元来は仏教用語で、「さんげ」と発音する。懺はサンスクリット語のkamaの音写、悔がその意味を表す漢語である。自分の犯した罪過を悔い、神仏や他人に赦 (ゆる) しを乞 (こ) う行為が懺悔であるが、仏教に限らず他の宗教にも類似の行為があり、日常用語としても広く使用され、「ざんげ」と通称されている。(中略)

キリスト教における懺悔
告解は、人ではなく、神に向かってなされる行為であること、また感情の誇張を極力退けるところから、告解と懺悔とは別であるというのがカトリック側の主張である。「聖霊を受けよ。あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、あなたがたが許さずにおく罪は、そのまま残るであろう」(「ヨハネ伝福音書 (ふくいんしょ) 」20章22~23)というキリストのことばに基づき、使徒とその後継者である司教・司祭に罪を赦す権能が与えられたとしている。聖堂の一角には告解場の小部屋が設けられる。他方、プロテスタントは、罪は告白や償いで赦されるものではないとして、告解の秘蹟を否定し、個人の内面的な悔改めを勧めたが、心の平安を求める信者については、牧師への告白を信仰への一助として認めている。

[1]^”懺悔”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, (参照 2021-02-16)
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