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意味がある④/④ 内部を質から変える

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やってみよう
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六本木アートカレッジのアーカイブ動画を見たので、感想と覚書を4回に分けてブログに書いておく。①では、全体の感想を書いた。②~④は、印象に残った3つの講義についての感想を書く予定。②は一番目に③は二番目に印象に残ったものを書いた。④(いまココ)は三番目に印象に残った、高野山のご住職の飛鷹全法さんと山口周さんの対談について書く。

対談テーマ 「自分時間」を意味づける!
飛鷹全法(高野山 高祖院住職)
山口周(独立研究者/著作家/パブリックスピーカー)

私は、ほとんどの日本人と同じように自分と宗教の関わりを深く考えたことがなかった。でも国民の9割がキリスト教徒であるフィリピンで暮らしていると、自分の思考の基礎になっているのは、明らかにキリスト教文化ではなく、仏教だと感じる。

ひとりの神様だけを信じるという感覚がどうにもしっくりこないのだ。もしかすると、仏教ではなく、アニミズムなのかもしれないけれど、私のなかには、特段に意識をしなくても、ふつうに世界と繋がっている感覚がある。山にも海にも川にも、神様(のような存在)がいるだろうと思っているし、動物も人間と同じ、この世界に生きている仲間だと思える。だから、ある特定の生き物(たとえば牛や豚)が不浄だなんて、どうしてそんな失礼なことが言えるんだろう、とか思ってしまう。

宗教とは、もともと、結びつける、という意味の言葉だった。密教では、入我我入(にゅうががにゅう)という言葉もある。これは、人が仏と一体になることを示している。ヨーロッパでは自然と人間を対立的にとらえるが、真言密教では、自然と人間も一体としてとらえる。同じ仏からもらった命であり、全てはつながっているからだ。人間である我々自身が自然なのだ。そして人間だけでなく、動物も、非生物も含めて、すべてが一体である、という思考になる。

飛鷹さんが、こういうお話をされて、あ、やはり仏教だったんだな、とスッキリした。私は、ちゃんと仏教を学んだわけでもないし、お経も読めない。でも、こういう話を聴くと、まったく疑問を感じることもなく、そりゃ、そうだよね、とストンと腹落ちする感覚を味わえてしまう。不思議だ。明治、大正生まれの祖父母と北陸の田舎で暮らしていたことも関係しているのかもしれない。

バートランド・ラッセルは「幸福論」のなかで、自分自身に関心を向ける人は必ず不幸になると言っている。彼は自殺衝動に悩まされていたが、数学に対する好奇心、社会に対する関心を持ち続けたおかげで、生き延びることができた。ラッセルの生き方から、外側に向かう関心を持つことの大切さを学ぶことができる

大乗仏教の初期の目的は、自分が悟りを開くことだった。しかし、自分だけでよいのか。ほかの人たちは、どうする?という話が出てくる。

このふたつの話は、現代における宗教の役割を考えることにつながっている。西田幾多郎「善の研究」解説書を読み始めたところなのだが、宗教とは何か、哲学とは何か、その役割はいったい何なのか、読みながら考える時に、飛鷹さんと山口さんの対談を思い出しそうな気がする。

現代の人間関係はお金を通じてしか結びつかないようになっている。ファイナンスのファイはラテン語のファイ、英語のフィナーレで、これはつまり、お金を渡すことで関係性をチャラにする、という意味なのだ。
マルセルモースが「贈与論」で書いているが、近代の資本主義のしくみは、効率を上げるために、お金で1回づつの関係をチャラにするようになっている

ドキッとする。どこで聞いたのか、読んだのか忘れたが、好意を受けた相手を怒らせるには、「ありがとう。で、あなたのサービスはおいくらですか」と相手に聞けばよい、という話を思い出した。私は、商売人の家に生まれ育ったためか、とにかく、金銭至上主義が、身体と頭に染みついていたらしい。

無意識だったが、ある時、何かがおかしい、と気づいた。つまりすべての価値基準を金銭に換算し、計算して効率的に考えてばかりいると、意図せず、誰かを傷つける可能性がある、そういうこと。お金を渡すことが関係性を清算することになるなんて、誰も教えてくれなかった。いったい、みんな、どうやって使い分けを学んでいるんだろう。

100日間、周囲から隔絶された環境で内省して過ごすという志度加行(しどけぎょう)をして気づいたことがある。自分の内部を質から変えるためには、外部からのインプットを止める必要がある。ただ、現代では、壮大な隔離、究極の隔離が行われても精神的な隔離は難しい。身体が動かなくても、簡単にネットワークにつながってしまうから。自分の深い時間を持とうと思ったら環境設定をしなければならない。身体性と精神の集中を求める場合、ネットワーク(社会性)からの遮断が有効になる。

いま、マニラはコロナ対策で1か月ロックダウンされている。生活に必需な業務以外については在宅ワーク推奨、不要不急の外出も禁止され、日々の生活も制限され、現実として誰もが社会から隔離されていることを実感しているだろう。けれども、ニュースを見たり、SNSなどのネットワークへの接続を続けている限り、外部からのインプットは止まらない。つまり、十分に内省できる環境ではない、ということになる。

単純に物理的に家の中に閉じこもるだけでは、不十分なのだ。しかし、飛鷹さんは、いったん、完全に遮断した状態を体験し、身体に記憶させたら、その状態をのちのち、異なる環境でも引き出しやすくなるだろう、という。一回本物に触れて自分の中にインストールしておく、って感じらしい。そんなわけで、これまで全く興味がなかったのだけれど、高野山に行ってみたい気持ちになっている。ただ行っただけじゃなくて修業しなきゃダメなんだろうけど。

②で「伝統産業」である和紙と最新テクノロジーを組み合わせて、新たな建築資材を生み出し、価値を想像した堀木さんの話を書いた。ここでも、伝統に新しいものを組み込むことが、高野山が1200年存続できた理由だ、という話があった。

最後に、「文化的な蓄積アセットにどのような価値を見出していくのかが仏教者の役割」という飛鷹さんの言葉を聴いて、彼が6回モデレーターを務めたという「未来自分会議」のアーカイブも気になっている。これ、すごくキレイにまとまってて分かりやすいんだけど、まとまってなくていいから雑多な情報も入ってる音声もあったら、さらに魅力的だっただろうに、って思っちゃう。熱量が文字と音だと全然違うから。

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