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働くってどういうこと②

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ふりかえり
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アジアン・ドキュメンタリーズ「私の名は、塩」(MY NAME IS SALT)を見たので、備忘記録を残しておきます。
うん。素直にとても素晴らしい映画だったと思います。ここのところ、あんまり自分の好きなタイプの映画を見つけられなかったので、久々に見て良かったなぁと心から思える作品に出会えて幸せです。

私は、こういうドキュメンタリー映画が一番染みるタイプなんでしょう。
監督さんと、見る機会を提供してくださる方には感謝しかありません。
見終わったあとに、パチャ監督が女性だと知って、驚くと同時に納得感が押し寄せてきたんですが、あの感情はなんでしょうかね。
まだうまく言葉にできません。

感想

鳥の声を聞きながら、湿った土の上を裸足で踏みしめる音。
ハエの飛ぶ音。
ポンプで水をくみ上げる音。
夜中に聞こえる鈴虫の声。
風で塩田に張った水にさざ波が立つ音。
子どもの歌声。

荒れ果てた荒野にみえる場所は、たっぷりと塩を含んだ湿地で、この家族はこの土地から塩を生成する知識と技術を持っている。
塩を含んだ湿地を区切って、はだしで踏み固める。なんども繰り返して踏み固め、純度の高い塩を生成できる塩田をつくる。
真っ白な塩を収穫するまで8か月。
下弦の月が満月に近づいていくころ、彼らの仕事は終わる。


このドキュメンタリー映画は、インド西部のグジャラート地方で、製塩を生業としている家族の生活を記録したものだ。
何もない平野にやってきた一家が地面を掘り返して、そこからホースやらポンプ(!)やら、色々なものを取り出していく。
裸足に素手で、地面の穴から土や石を少しずつ取り出している場面を見たとき、何を探しているのかと思ったが、やがて彼らは自分たちの道具を、その穴に埋めておいたらしい、と気づく。

どのように塩を作るのか、わたしに技術的な知識は全くないけれど、ものすごく原始的なやり方をしているのは分かる。
何しろ素手だし、はだしなのだ。なぜ、道具を使わず、手をシャベル替わりにして土を掘っているんだろう。
単純に道具を持っていないわけではない。
黒のゴム長靴も、湿地であぜ道を作る鍬も、塩田を整える鋤も持っている。だから彼らなりの理由があるんだろう。
でもそれは観客には分からない。

映画のなかで、満々と水が満たされて、湖のように広がる美しい風景を見ていたら、田植え前の4月、ふるさとの田園風景とイメージが重なった。
まるで、昔ながらの日本の農家が、一家で田を耕して、畔を作って、用水から水を引いて水田をつくり、苗を植えて、耕してお米を収穫するよう様子を見ているようだ ったから。

しかし現代の日本でお米作りをする農家は、トラクター(耕運機)が田んぼを耕し、田植え機が苗を植え、成長した稲をコンバイン(稲刈り機)が刈り取って、乾燥機を使い、精米機をかけて、食べられる状態のお米をつくる。

このドキュメンタリー映画は2013年製作なので、今から7年前になる。
あの息子たちは、父親の仕事を、まったく同じ方法で、手伝っているのだろうか。

日本では、農家の親は自分の仕事を子どもに継がせたがらないと聞く。
これだけ機械を使って効率化をしているにも関わらず、儲けは少なく、大変なことが分かっているから。
勉強をして良い大学を出て、安定した会社に勤めて、安定した暮らしをしてほしい、と望む。

「働くってどういうこと①」で書いたが、セルフスタディ・ナビ第6回の映像講義で、講師の三井さんは、インドでは子どもは親の仕事を継ぐのが当たり前、という社会だと言っていた。

こうして日本とインドを比較した場合、どんな働き方にしろ、自分で選べる状況にあるほうが私にとっては理想的だと感じる。
確かにこのドキュメンタリー映画は、美しく私の心を揺さぶるが、この資本主義社会において、彼らの仕事は、自分たちが作った塩を、仲買人に売り渡している限り、悲しいけれどいずれ失われていくものではないだろうか。

グローバル化が進む国際社会で競争力を持たない人が搾取されてしまう、というしくみって全世界共通だと思うのだが、インド社会が持つ価値観があれば、そこは乗り越えられるということなのだろうか。

心に残ったところ 

  • 登場人物ひとりひとりの佇まいが非常に自然で、まったく撮影されていることを意識していないように見えたところ
  • 言葉による解説がラストシーンまでないのに、最後まで興味深く映画を見られたこと
  • 撮影された場面が美しい
  • 自然の音(鳥、水、風、虫など)と時間の経過を表す場面で使用されるBGMのバランス

調べてみたこと

ファリーダ・パチャ監督へのQ&A(Q& A Farida Pacha)

この映画に関するパシャ監督へのインタビューを見つけられて良かった。主役のお父さん、サナパイさんっていう名前だったんだね。確かに彼はカッコよかった。
でも監督がいう、意志が強く、完璧主義者という部分は、インド社会をよく知らない私からみると、伝わらない部分もある。真摯に仕事に取り組んで、完璧を求めるのは当たり前のことではないのか、って無意識に思ってしまう。何しろ、日本は電車が1分遅れただけで、車内アナウンスで車掌さんがお詫びするのが当たりまえの国だから。完璧主義者だらけで、社会全体が完璧であることを求めて、他人、特に弱者に対する寛容さを失っているですよね。あ、でもそれはまた別の話か。

  • この作品で監督が伝えたかったのは、自分がいかに深く彼らの生活と仕事への姿勢に共鳴したかということ(仕事の完璧さへの探求(work and the quest for perfection))
  • なぜこの家族を選んだのか→サナバイ(Sanabhai)自身が魅力的だったこと。彼は最高の塩を生産することに専念する強い意志のある完璧主義者だから。家族構成とその役割も監督が描きたかったものに一致した。また、この一家は映画作成にとても協力的だった。
  • 様々な時間帯、様々な視点から撮影されているが撮影監督のコナーマンはどのような手法を使ったか→撮影を通してソニーEX1Rのみを使用し、レンズを変えなかった。(カメラに砂が入るのを防ぐため)一家の暮らしは反復作業が多いため、状況を理解してカメラを設置し、忍耐強く、求める場面が訪れるのを信じて待った。厳格さを保ち完璧を求めるように努めたから、この映画は注意深く作られた観察映画になった。
  • 撮影時の状況について:8か月を1サイクルにして撮影。10回砂漠を旅し、60日間をそこで過ごした。ほとんどの時間は猛暑で、トイレはない。飲料水は限られており、バケツは4日毎に洗っていた。私たちは3人のチームで、カメラのバッテリーを充電するためのソーラーパネルを含む全ての機器を自分たちで持ち歩いていた。
  • 気を付けた点:映画制作を通して、この作品が絵葉書のような表面的な美しさに陥らないよう注意したが、一方であの景色と彼らの労働は非常にリズミカルで本質的な美しさを持つ。 私は、なにか真実ではないものをそこで描いたわけではないが、この映画製作という探求では、美を超えるイメージを見出したし、それ以上のものを観客に伝えられた。 また一方で、ドキュメンタリー映画では、ずさんなフレームの映像が「ザラザラした現実」を目立たせてしまう傾向があるため、それを避けたかった。
  • この映画の重要な側面は、最小限のBGM、ナレーションがないこと、静寂が多いことではないか? →この映画が静かだとは思わない。話される言葉は確かに少ない。でも注意してもらえば、多くの音が聞こえるだろう。最も重要なものはポンプで、これは映画の鼓動だ。 また、一家の労働に関連する全ての音がある。足が地面を押す柔らかい音、釘が打ち込まれる鋭い音など。これらの音は観客にこの一家の住んでいる世界の感覚を与える重要な役割を持つ。 ナレーションは必要を感じなかった。製塩プロセスを観察するのに十分な時間を費やしたので、見るだけで十分理解できると判断できた。映画の最後に表示した文章を、映画の冒頭に置くことも検討したが、それでは、すべての謎が一気に失われるため面白くないと考えた。とはいえ、観客は自分で謎を解く必要はない。例えば地面から掘り出されるパイプを見れば、想像がつくのでは?

働くこと

「私たちは何のために働くのか。働く意味や価値とは何か」800字

働くことに過剰に意味や価値を見出そうとすることには注意が必要だ。私たちは生きていくために働くが、働かなくても、生きていることに意味はあるし、もし、そこに意味や価値を見出せなかったとしても、生きていけるからだ。

「私の名は、塩」のパチャ監督は、このドキュメンタリー映画で仕事の完璧さへの探求を描こうとし、それに相応しい塩生産者サナバイを選び出し、彼とその家族の姿を8か月間に渡って撮影した。 サナバイにとっては、強い意志でこだわりを貫いて美しい塩を作ることに意味があり、そのプライドと家族を守ることが価値あることなのだ。また彼は金銭的な報酬よりも、自分の達成感に重きを置いて働いているようにも感じられた。パチャ監督は、彼の価値観に深く共感して、それを多くの人に伝えるために、この作品を作った。しかし、強い意志は、良い方向にばかり働くとも限らない。

例えば、相模原障害者施設殺傷事件(2016年7月に施設入所者ら45名が元施設職員に殺傷された)では、働くことのできない障害者や老人は社会にとって無意味だ、という、かつてナチスドイツが掲げていたような優性思想を持った男が、凶行に及んだと言われる。
加害者は、彼らのために働いていたにも関わらず、働くことの意味や価値を見誤ったわけだが、彼も彼自身の信念に対して強固な意志を持ち、殺人を犯すことが社会にとって役立ち、意味があると考えていたのだ。

ゆえに私たちは、働くことに対して、過剰な意味づけを排して、もっと謙虚になる必要がある。他者への貢献を目指して働くこと、より完璧を目指して努力して働くことは意味があるし、評価されるべきだと思う。しかし、それと同じように、もしも周囲が求めるように働けなかったとしても、問題はないのだ。もし問題があるとすれば、働くことができない人を排除しようとする社会のほうだ。私たちは生きるために働く。 働ける人は働けばよいし、難しい人は、働ける人が助けてあげればいい。

働きアリは、その80%は忙しく働くが残り20%は、なぜか働かなくなってしまうのだという。
人間社会も似たようなものかもしれない。働く、ということを個人で考えるのではなく、社会全体のしくみとして考えてみたほうがよくはないだろうか。だって人間は特に社会性を持ち群れで生きる生物だから。
人類は、いや人類に限らず、あらゆる生物は、その種族全体の利益のために働いている。
究極の働く意味と価値は、変化に適応して生存確率を上げることではないだろうか。
その種族としての群れの知性は、個人レベルではいかんともしがたいという事実を認めて、もっと身軽に働くことを捉えても良いと思う。

(1085文字) ※285文字削ること

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