正しく自己主張したり、自然な親切ができたり、そういうコミュニケーション力をあげたいもんざです。
初めて行った中華系のファーストフード店で、シュウマイラーメンと豚まんのセットに空芯菜炒めを追加で注文しました。
気づいていなかったのですが、セットにはドリンクが付いていたようで、コーラ、アイスティーなどの種類を提示されました。
甘いものは飲みたくなかったので「お水をください」と伝えたら、なぜか「コーラ」が出てきました。
わたし「お水を頼んだのですが」
お姉さん「??」
わたし「ウォータ、ぅわぉら」
お姉さん「コーラ?ウォーター?」
お兄さん「お水ですね」
別の男性店員さんが理解してお水を用意してくれましたが、正直いうと、自分の発音がそんなにダメだったかと少しショック。
そして水のタガログ語トゥビグも覚えたはずなのに、とっさに出てこない!こういう時に使えなきゃダメでしょうに。。。
でも、20代の自分であれば、黙ってコーラを受け取っていたはずなので、正しく自己主張できるように成長はしていることを実感できてよかったです。
タガログ語学習のモチベーションも上がったし、次回は絶対「トゥビグ(水)」を瞬時に使える自信もつきました(笑)。
帰宅途中で7L入りの水を買って、よろよろと自宅のエレベーターに乗ろうとしたら、親切なお兄さんが先を譲ってくれて、エレベーター内で話しかけられました。
彼が先に降りるときに、よい休日を、といってニッコリ笑って去っていったのですが、こういうコミュニケーション力って、意外と重要な気がすると改めて思ったんです。日本にいたとき、ふつうにエレベーターで知らない人に話しかけたりできたのに、英語だとすっかり怖気づいてしまうのですよね。
警戒心とのバランス調整が難しいところですが、善意の人とのコミュニケーションは気持ちよくスムーズに行いたいものです。
さて。課題です。
私は米原真理さんのエッセイ集「偉くない私が一番自由」を読んでいます。
エッセイ集と言いつつ、なんと米原さんの東京外大の卒論が含まれているのですよ。
ネクラーソフというロシアの国民的詩人についての伝記的考察なのですが、読んでいると米原さんのネクラーソフとロシアへの愛情が伝わってきて、ものすごくネクラーソフの戯曲や詩などの作品が読みたくなります。
人でもモノでも何かを偏愛している期間は、その当人は非常に幸福感を味わえます。
でも、その陶酔を言語化して他者が理解できる形で共有するには相当な力量が必要で、そういう意味でも米原さんは若くして稀有な存在だったと思われます。
読みながら、例えば私は自分の大好きな作家について、こんなふうに論じることができるだろうか、と自問しました。
米原さんが、日常レベルにまで詩人の感性を取り込んでいたように、私も、お気に入りというレベルから、心酔しているというレベルにまで好きの密度を高める必要があるのかもしれません。
よしざきさんからお申込みがあり5名になりました。
よしざきさん、ありがとうございます。
■参加者(5名)
1.もんざ
2.にしやまさん
3.りんさん
4.Ooiさん
5.よしざきさん