ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に登場する重要キャラクターの一人がゾシマ長老です。この未完のミステリーを読み解く伏線として、ゾシマの生い立ちや経験したことが克明に記されているのが 第6編「ロシアの修道僧」です。
主人公の一人である末弟アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)が、彼が師と崇めるゾシマが語った内容を聞き書きした、という体裁になっています。(ゾシマ長老の直接の語りではなく、アリョーシャが物語を編纂している、これも重要なところ)
そこでキリスト教の宗教的な考察が色々と出てきます。聖書からの引用も多く、知識がないのでよく分からない。今回は「ラザロの寓話」に引っかかりました。「ラザロの寓話」って、なんのこと?
この記事を読むと、2人のラザロの物語の違いが理解できます。
カラマーゾフの兄弟
どこに「ラザロの寓話」が出てくるのか?
この幸せな存在*は、このかけがいのない贈りものをしりぞけ、価値を認めず、愛することもなく、あざけりの目で一瞥しただけで、そのまま冷徹無情な存在としてとどまった。すでにこの地上を去ったその人は、アブラハムのふところを見、アブラハムと話もするし—これは富める者とラザロの寓話がわたしたちに示しているとおりだ—、天国を仰いで主のもとに昇ることもできる。しかし、その彼も、ほかでもない、あるひとつのことに苦しまざるをえない。
*引用者注:神から地上に生を与えられた人間のこと
第6編ロシアの修道僧 (i)地獄と地獄の火について、神秘的考察 カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫) ドストエフスキー (著), 亀山 郁夫 (翻訳)
ラザロの寓話
百科事典でラザロを調べると、新約聖書には2人のラザロが登場すると解説されています。カラマーゾフの兄弟の本文を再確認すると、「富める者とラザロ」と示されていますね。
つまり、ここで物語が指しているのは、ヨハネ伝ではなく、ルカ伝福音書(16章19~31節)のほうでした。しかし、せっかくなので、両方について内容を確認することにします。
『新約聖書』の「ルカ伝福音 (ふくいん) 書」(16章19~31節)および「ヨハネ伝福音書」(11章1~46節)に登場する人物の名。前者のラザロは、イエスのたとえ話に出てくる人物で、全身できもので覆われた貧乏人である。たとえでは、来 (きた) るべき世の救いに関連し、ラザロとある金持ちとが対照的に語られる。後者のラザロは、ベタニアのマルタとマリア姉妹の兄弟であり、病死したのちイエスによって甦 (よみがえ) らされた。
“ラザロ”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-11-01)
ラザロ Lazarus; Lazaros
ラザルのプロテスタント式の呼び名。 (1) 新約聖書中の人物。イエスのたとえ話中の貧乏人の名。イエスは,生前人々に尊ばれても神の前では忌み嫌われる金持と,死後神の前で慰められる貧乏人ラザロとを対比して取上げている (ルカ福音書 16章 19~31) 。(2) 新約聖書中の人物。イエスの親しい友,ベタニアのラザロ。ベタニアのマルタとマリアの兄弟。イエスの力で死後4日目に生返った (ヨハネ福音書 11章1~44) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典
ルカによる福音書(16章19~31節)貧しいラザロ
こちらは乞食のラザロの寓話。金持ちは、貧しい人に施しもせず、贅沢三昧のくらしをしていたが、死んでから、炎で焼かれるはめに。。。
19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
ルカによる福音書(16章19~31節)新約聖書 新共同訳
ヨハネによる福音書(11章1~46節)復活したラザロ
こちらは一度死んでから4日目に復活したラザロのお話。
1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
ヨハネによる福音書(11章1~46節)新約聖書 新共同訳
解説
新訳聖書に登場する2種類のラザロの物語について、G・H・トレバーの解説が非常に参考になりました。[1]読みながら、ふーん、へー、そういう意味なのか、と理解できる部分と、正直「何を言っているの??」と頭を抱えるところもあります。まぁ、今回、それは横においておきます。
それぞれの物語が、何を意図して聖書の中で描かれたのか、以下に整理してみました。
ひとつは、ヨハネの福音書11章で描かれる、死から復活するベタニアのラザロ。
もうひとつはルカの福音書16章に登場する金持ちから見捨てられる貧乏なラザロ。
この二人は同一人物ではないと言われている。
前者はキリストの力を示し、後者は忍耐強さと信仰の強さの重要性を示す。
ラザロという名前は、ヘブライ語で神は助けたという意味のエルアザルEleazarからラテン語のLazarに変化したもので、現代においても、その由来から、キリスト教圏の科学や大衆文化において命名に利用されることがある。(ラザロ徴候、ラザロ分類など)
1.ベタニアのラザロ
ベタニアに、マルタとマリアとその兄弟であるラザロがいた。3人はしばしばイエスを彼らの家でもてなし、イエスから愛されていた。しかしイエスがいない間に、ラザロは病にかかり、マリアは高価な軟膏を用いて手当したがラザロは死んでしまう。しかし、イエスが戻り、ラザロは死後4日目に復活した。その結果、多くのユダヤ人がイエスを信じた。また大勢の一般人もイエスを支持するようになったため、祭司たちはラザロ殺害を企てたが、エピファニウスによれば、裕福なラザロは死んだとき30歳で、その後30年生きたとされる。
ラザロの復活の寓話は、キリスト教芸術では人気の題材だが、これに異議を唱える反論も多く、それは主に3種類に分類される。(1.ほかの福音書で言及されていない、2.性質的にありえなさすぎる奇跡、3.イエスに対する告発として使われなかったこと)
また、この奇跡が描かれた目的は以下の4つである。
(1) 死の宣告を受ける直前に、生と死の主であることを示す
(2) 弟子たちの信仰を強める
(3) 多くのユダヤ人を改宗させる
(4) 司祭たちの動きを早め主の時が来た時に備える
2.乞食のラザロ
ルカの福音書に登場するラザロは、体中ができものだらけで、犬にその身体をなめられている。犬は、新旧ともに聖書内で通常、軽蔑的な性格をもち、低い評価を持つものとしてシンボライズされている。ラザロは現世では極貧だが、来世では高い報酬と栄誉を受けるように描かれている。
これはイエスが例え話の中で使った唯一の固有名詞である。キリスト教では、名前は真実を示す。この乞食の神への信仰と忍耐強い信心を表現することが重要だったため「ラザロ」という名を用いたのだろう。アブラハムがラザロを受け入れたのは、彼が貧しかったからではなく、信仰の強さによる。ラザロ自身は全く語ってはいないが、これも忍耐強い服従を示唆しているのだろう。彼は自分の苦境に不平をもらさず、金持ちを嘲笑しない。
この例え話は「愚かな金持ちのたとえ」(ルカ12:16-21)や「不正な管理人」(ルカ16:1-13)とも関連する。富を賢く使うことができなかった場合に、どんな災難に見舞われるかを示すこれらの教訓は、死後の私たちの状況は、現世での行動次第であり、現世で貧しかったとしても逆転する可能性がある、という希望となる。[5] [6]
このように、ラザロは高慢で貪欲で贅沢を好むパリサイ人とは正反対の立場にいる敬虔な貧民を表す。また金持ちは、厳密には固有名詞ではなく「金持ち」を意味するラテン語の形容詞であるDivesが用いられている。
この物語に登場する金持ちの罪は裕福であることではなかった。なぜなら、アブラハムも当時は裕福だったからだ。霊的・永遠的なものに対する世俗的な不信が、この金持ちに派手な贅沢をさせ、貧しい人々に対する心ない侮蔑となって表れたことが罪なのだ。
まとめ・感想
貧しいこと、金持ちであること、それ自体が問題なのではなく、信仰心の有無が問題となる点に注意が必要だと気づきました。
参考
[1]Lazarus(Bible Study Tools) G. H. Trever
https://www.biblestudytools.com/encyclopedias/isbe/lazarus.html
[2]Luke 16:20(Bible Study Tools)
https://www.biblestudytools.com/commentaries/gills-exposition-of-the-bible/luke-16-20.html
[3]Dog(Bible Study Tools)
https://www.biblestudytools.com/dictionary/dog/
[4]ラザロと犬(気ままにカトリック生活)
https://kimama-catholic.work/lazarus-and-the-dog/
[5]「愚かな金持ち」のたとえ話(ルカ12:16-21)
https://my.bible.com/en-GB/bible/1819/LUK.12.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3
[6]「不正な管理人」(ルカ16:1-13)
https://my.bible.com/en-GB/bible/1819/LUK.16.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3