コムデギャルソンのデザイナー川久保玲さんとミュージシャンのビョークが交わしたメールのやりとりを読んで、川久保さんってどれだけ洗練されていてカッコイイんだろ?とゾクゾクしたもんざです。 この記事を知ったのは、私がビョークをTwitterでフォローしているからです。彼女がこの記事を共有したので、興味を持ちました。恥ずかしながらファッションに疎いため、タイトルを見たときは、Kawakubo?日本人みたいだけど、だれ?という認識でした。
それで名前で検索し、川久保さんの経歴と評価をようやく知って、この記事を読み始めました。彼女たちが独創性や創作することをどのように考えているか、この短い往復書簡の中に濃縮されています。全体の流れとしては、ビョークが非常に川久保さんを尊敬しているらしく、彼女の意見を聴きたがっている雰囲気です。
ビョークが質問し、川久保さんが回答し、ビョークが激しく同意する、みたいな。ビョークの質問は、想定の範囲内なのですが、それに対する川久保さんの回答が完全に私の想定外で、クラクラしたわけです。
KAWAKUBO:When I’m thinking about making clothes, I don’t think about the wearing of them, or what the image will be someone wears them. I create at the place where the body or the person is separate from the clothes. They then become clothes as a result of that.
Future Folklore: An Unedited E-Mail Correspondence Between Rei Kawakubo and Björk @Interview Magazine
服を機能性と合理性と社会的必要性で選ぶ私に、この思考は衝撃を与えます。(服を選ぶのが面倒で、自分も猫みたいな毛皮とかヘビみたいな鱗があったら服を着なくてラクなのに、とか思ったりするタイプなので。。。)でも同時に、芸術家と呼ばれる人たちが、だいたい同じようなことを言うことも思い出しました。彫刻家ロダンも、自分はただ大理石の中に見える形を削りだしているだけだ、とか。音楽家も頭の中が音で溢れるから出さないと気持ち悪いとか。
私のような凡人は、彼らが創り出した驚くような別世界を、時々共有してくれるのを、ただおとなしく待っているだけなんですよね。
さて、課題です。
わたしは、こちらを読んでいます。
■ 「在野研究ビギナーズ・勝手にはじめる研究生活」荒木優太(編著) 明石書店
昨日に続き、第3章の伊藤さんの言葉から共感したところを引用します。
「金を払って自分の身体を痛めつけに行くなど、スポーツを忌み嫌ったアドルノが聞いたら痛烈な批判を言いそうではあるが、体調を悪くして好きな研究を続けられなくなることを避けられるなら、アドルノに嫌味を言われてもいいと思った」
「在野研究ビギナーズ・勝手にはじめる研究生活」 第3章 40歳から「週末学者」になる 伊藤未明
ユーモアのある文章に思わず、ふふっと笑ってしまいました。ドイツの哲学者・社会学者のアドルノがどの程度のスポーツ嫌いだったのか分かりませんが、私も世間一般で人気があるようなスポーツには縁遠いので、感覚が分かります。
でも、「好き」「嫌い」の二項対立って、視野を狭めますよね。ビョークと川久保さんのメール書簡にも、二項対立を超えたところに、本当の自由があって、私たちが目指すものはそれだ、というような内容があったんですけど、まさに、それだな、と。
私のなかで「身体を鍛えること」は、より自分を自由にすることに直結しているって、40代も半ばを過ぎてから実感していることも伊藤さんの言葉に共感する理由かもしれません。
さて、読書会まで、あと6日です。参加予定のみなさまは、ご紹介いただく予定の本をGoogleドキュメントに入力するか、投稿にコメントする形でお知らせくださいね。
今日も読んでくださってありがとうございます。
明日もどうぞよろしくお願いします。