なぜか最近Twitterばかり見てしまう。中毒っぽいな、なぜだろう。そういえば2011年3月の東日本大震災のときも、Twitterをみるのが止められなかった。
あの時は、テレビでは地震がもたらした津波と事故、その被害が映し出され、とても見ていられなかったのだが、だからといって、情報は得たかったのでTwitterに頼っていた。ただ、そこに流れる情報は非常に雑多で、真偽が怪しいものも含まれていた。でも、それも含めて人間の良いところも悪いところも、ごたまぜにしてダラダラとただ流れていく様子をこちらもただぼうっと見ていた。
最近は、政治家もTwitterを活用するようになり(トランプの影響なのか?)、文化人と呼ばれる人たちと市井の人たちが区別なく混ざり合って、男女差別の問題だったり、国際問題や、言論の自由に関してなど、いろいろな人が自由に自分に意見を書き込んでいて、それがまた、怪しく雑多な混沌をみせているから、眺めていると時間が経つのを忘れる。
しかし、そうやって時間をムダにしていると自己嫌悪と罪悪感に襲われる。まぁ、でも、その感情を和らげるために、少しでも役立つ読書をしよう、という気持ちになるのだから、まったくのムダではないのかも。
そんなわけで、読んだ本の感想をすこし書いておく。
なにか興味を惹かれる古典はないかと探していたら、与謝野晶子の評論をkindleで発見した。もとは青空文庫だそう。10頁だし無料だし、タイトルから何となく内容は推察できるけれど、手ごろだったので読み始めた。とても読みやすく、あっという間に読めるけれど、過去・現在・未来の日本について考えさせられる内容だと思う。この評論には、100年近くまえ、女性たちがどのように「女らしくない」と非難されていたのか、その状況が明確に描かれている。その状況に対して、著者が論理的に整然と反論している。
驚くほど、古さを感じさせない。私が「古さ」を感じなかったのは、Twitterのなかで日々繰り広げられている「生きにくさ」を感じている現代女性たちの声と重なるからだろう。
「なぜ私たちがこんな目に合わなければならないのか」どこにも向けることのできない暗い怒りがTwitterの中に渦巻いている。
それでも、ずいぶんと女性たちが自由に生きられるようになったのは、この評論の出された1921年から与謝野晶子のような人たちが「それはおかしい」と声を上げ続けてくれたおかげなのだ。だから、Twitterのなかで、「こんなことはおかしい」と誰かが意見を言って、それに対して色々な人たちが、ああでもない、こうでもない、と議論をすることも決して無駄なことではないだろうと思う。