なんで見ちゃいけないって思うのかな。正午きっかりだとお店が混雑しているので、時間をずらして13時半に遅めのランチを食べていた。テイクアウトのみだったレストランでの店内飲食が数日前に緩和され、定員の1割ならOKとなり、利用している。
数か所、気に入ったレストランがあり、その時の気分で食べたいものが違うから使い分けしているのだけれど、今回ちょっとした気づきがあったのは、自宅から近く、ショッピングモールに入っていないタイプの食堂でのこと。オルティガス通りという常に大量の車が流れている幹線道路から一本離れたサファイア通りに面した、ハンバーガー、パスタ、ステーキ、そして地元料理なども提供しているアメリカンスタイルのビッグダディというレストラン。サファイア通りのこの辺りはスタバやミニストップ、パンケーキやバブルティーのお店もあり、平日の昼時はそこそこ人通りがある。
私がビッグ・ダディを気に入っているのは、価格が手ごろで食事が美味しいことに加えて、入り口ドアを開けて、店内の冷房を切って扇風機だけにしている時があること。レストランが強冷房だと、最初は良くても、すぐに身体が冷えて辛いのだ。同じ理由でカフェも、あまり得意ではなくて、ほとんど利用することがない。
それはさておき、久しぶりにビッグダディに行ったら、ランチの波が引いた後で客は私ひとり。室内も冷房で身体が冷え切っている私にはちょうどよい暑さ。サファイア通りの椰子の樹と、行きかう人々を眺めつつ、ご飯を食べようと、景色の良い窓際の角席に座り、注文したホワイトチキン定食をモグモグ食べ始めたら、窓の外に3歳くらいの男の子を抱っこした十代と思われる女の子が現れて、私に向かってガラス越しに手をさし出してきた。
この状況でも、お金ちょうだいってガラス越しに催促してくるのか、と苦笑しつつ、さすがに、今は食事中だから勘弁して、と眼を合わせないようにした。すると、彼女は、子どもを下ろして、ちょうど私の目の前の野外席に座って、待つ構えに。まいったなぁ、お腹減ってるのかなぁ、じろじろ見られたら食べづらいなぁと思いつつも、自分も空腹なので気にせず食べようと決め、こっそりと彼女たちの様子をうかがっていた。
でも彼女は私が食べるところを注視するわけでもなく、通りや子どもを眺めている。そのうちに通りかかった人に手を差し出すと、一人の女性は50ペソ紙幣をくれた。見ていた私のほうが、いきなり50ペソ?とびっくり。その後、しばらくして通りかかった別の女性も、さらりと彼女に20ペソ紙幣を渡してくれていた。それから、彼女は子どもを笑わせようとふざけたりしつつ、10分くらいそこにいたと思うけれど、私が食べ終わるのを待たずに、どこかへ行ってしまった。
私は物乞いの人に会うたびに、罪悪感を感じたり、目を逸らしたくなってしまう。でも「なぜ私はそのように感じてしまうのか」と自分の気持ちを直視しようとしたのは、初めてかもしれない。この物乞いの二人は、姉弟なのか、親子なのか、彼らの関係性は不明だが、通りかかる人たちに手を差し出すしぐさや、二人でじゃれあってふざけている様子は、くったくがない。物乞いの人を見たら、目を逸らすか、お金を渡してすぐにその場を立ち去っていた自分だが、たった10分でも、彼らの様子を観察してみると、彼らも普通の人間だと気づく。
見ちゃいけない、と感じる私の心は、どこかで彼らを蔑んでいて、彼らは自分とは違う種類の人間だと感じている気がする。私だって、産まれる国が違っていたら、彼らと同じ境遇だったかもしれないのに。人は自分の意志で生まれてくるところを選べないのに。
分かっているつもりでも、つい、自分と異なる人を見ると無意識のうちにジャッジしてしまう。生きているだけで尊い、助け合いの精神が重要、そんなことは当たり前だと、頭では理解しているつもり。でも、どれだけ実際の生活で、自分自身が体現できるのか、問題はそこ。