自分自身は、なんにも変化していないのに、不思議だなぁと思うもんざです。2021年3月は、これまで学習してきたことが、実際の生活の場面で活用できたりして、新しい気づきが得られました。今回は、その体験について備忘記録を残しておきたいと思います。
何が起こって何を決めたか
実家の父が軽い脳梗塞で入院することになり、家族間で頻繁にやり取りをすることになりました。幸いにも、父の症状は軽く、自力での歩行や食事など一般的な生活には支障がないと診断され、17日で退院することができたのです。しかし、脳には障害が残っており、言葉がスムーズに話せない、難しいことが考えられない、など以前の父とは別人のようになってしまいました。
母は、できるだけ父と一緒にいたいらしく、自宅で介護したいという強い意向がありました。そのため、弟妹とも相談して、父母の意向を尊重して二人をサポートする方向で家族で協力しようと方針を固めました。
そして、これまで実家に帰るのは年に一度くらい、父母とも、まともに話をせずに何十年も過ごしてきた私が、毎晩LINEで電話して、父母と会話をし始めました。
俯瞰することで苦痛から逃れる
正直なところ、今回の件で、私は自分の過信に気づかされました。父母に何かがあったとしても、冷静に判断して対処できると思っていましたが、やはり、感情が揺れます。高齢の両親が、亡くなる可能性は、当然のこと。それは、誰にも避けることができない事実です。
しかし、肉親の負の変化、思考の衰えを目の当たりにすると、愕然とし、泣きたくなるような気持ちと、どうしようもない無力感に襲われました。どこにも持っていきようがない感情が、ふっと湧き上がってきて、思考能力が奪われます。
ところが、ありがたいことに、これまで学習してきた知識が、どこかから現れてきて、ぼーっとしている私の口から、勝手にこんな言葉が出てきました。「これまでと何が変わった?何も変わってないよね?仕事もある、住むところもある、自分が食べる心配はしなくていい。自分の命の心配はしなくていい。ただ、自分の心が変っただけだよね。そのせいで苦しいんだよね」
このブログに記録を残していますが、私は2月からCourseraでBuddhism and Modern Psychology(仏教と現代心理学講座)を学習しています。最終課題が難しくて、提出できずにいるところなのですが、ここで学んだ仏教思想の基礎を、実生活で思い起こすことになりました。仏教の最終目的はliberation from suffering(苦しみからの解放)なんです。
私の苦しみの原因
もう父と以前のような会話をすることができない、もう二度と話すことができなくなってしまうかもしれない、そう考えると、とても辛く苦しい気持ちになります。これは仏教の第一と第二の真理にあたる部分でしょう。自分の欲望(以前の父と話したい)と、それが思い通りにならない(でも話せない)という事実が、私の苦しみの原因になります。
とりあえず自分の苦しみの原因を突き止めることができた時点で、私の心は少し落ち着きました。これを取り除くことはできないけど、常に俯瞰する努力をすることはできます。俯瞰する方法のひとつとして「瞑想」という方法があるわけですが、これについては、また改めてブログに書きたいと思います。
こうしてブログに文章を書くことも、俯瞰して状況を分析する必要があるため、かなり私の苦しみを軽減してくれている気がしますね。
参考
Nirvana(涅槃)= liberation from suffering(苦しみからの解放)
- ①苦諦第一の真理(The First Noble Truth)
人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず苦であるという真実
(仏陀の診断①)Buddha’s diagnosis of the human predicament.
- ②集諦第二の真理(The Second Noble Truth)
苦はすべて自己の煩悩 や妄執など広義の欲望から生ずるという真実
(仏陀の診断②)Buddha’s diagnosis of the human predicament.
- ③滅諦第三の真理(The Third Noble Truth)
欲望を断じ滅して、解脱 し、涅槃 (ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実
(仏陀の処方箋①)Buddhist prescription
- ④道諦第四の真理(The Forth Noble Truth)
悟りに導く実践を示す真実。八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進 、正念、正定)による。
(仏陀の処方箋②)Buddhist prescription
- ゴール涅槃 (Nirvana ニルバーナ)
苦しみからの解放(liberation from suffering)
無我(むが):仏教を一貫する術語。最初期には、我執 (がしゅう) を中心とする執着を排する語として用いられ、初期経典では、我を「私のもの」「私」「私の自我」の3種に分析して、いっさいのものにこの3種の否定を反復する。部派仏教に入ると、人については無我でも、いっさいを支える法(「七十五法」が有名)はそれ自体で存在する(「人 (にん) 無我法有我 (うが) 」)という実体的な考えが強まり、大乗仏教はそれを崩し去って空 (くう) の思想を確立した。
“無我”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, ,(参照 2021-02-22)
なお、無我(我が無い)は非我(我ではない)とも称し、前記の否定の働きを含むあらゆる行為の主体としての自己はつねに強調されており、それが責任の所在であり、実践の当体をなす。ただし、この自己と我(自我)とは、サンスクリット語のアートマン、パーリ語のアッタンの一語であり、ときに誤解も生じやすい。「仏教は無我」という句が古来よく知られ、無我は、日常的には「とらわれないこと」と理解してよく、無心無我夢中などの語もこれを基礎に置く。
四諦:仏教の中心となる術語。四聖諦 (ししょうたい) ともよばれる。諦 (たい) (サティヤsatya、サッチャsacca)とは真理、真実をいう。人生におけるもっとも根本的な真理、真実を4種に分けて四諦の名称がある。すなわち(1)苦諦 (くたい) は、人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、(2)集諦 (じったい) は、その苦はすべて自己の煩悩 (ぼんのう) や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、(3)滅諦 (めったい) は、それらの欲望を断じ滅して、それから解脱 (げだつ) し、涅槃 (ねはん) (ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、(4)道諦 (どうたい) は、この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道 (はっしょうどう) (正見 (しょうけん) 、正思 (しょうし) 、正語 (しょうご) 、正業 (しょうごう) 、正命 (しょうみょう) 、正精進 (しょうしょうじん) 、正念 (しょうねん) 、正定 (しょうじょう) )による。この苦集滅道 (くじゅうめつどう) の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた。なお四諦を釈迦 (しゃか) の最初の説法とするのは、この反映によるとみられる。
“四諦”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, (参照 2021-02-21)