ダン・ブラウン「インフェルノ」を読み、すっかりイタリアを観光旅行をした気分になっているもんざです。
ダンテの「神曲(地獄篇)」の副読本として、「インフェルノ」を読んでいました。
先に映画を見ている人は、情景を目に浮かべながら読めるのでしょうね。(私は見ていません)
これは電子本で読むと面白さが倍増する類の本でした。
有名な絵画や音楽、歴史的建造物、人物名、出来事など、フィクション小説でありながら、描かれている世界はリアルな現実なのです。
フィレンツェの地図をネットで検索して、画像を眺めたり、フランツ・リストの「ダンテの「神曲」による交響曲」をSpotifyで流したりして、臨場感を高めつつ、登場人物たちと一緒にドキドキしていました。
主要な登場人物のひとり、シエナという女性医師は、頭が良すぎて幼少期から周囲と馴染めず、長年に渡って孤独感を感じていたんですね。
でも、医者になることで、他者を愛し、自己肯定感を上げ、自分の生きる意味を認められるようになって、少しだけ疎外感から逃れることができました。
エーリッヒ・フロムは孤立や孤独感は、集団への同調を生むと述べていますが、彼女の場合は、集団への同調が困難だったことが、彼女のエゴイズムを別の方向へ向けさせ、才能を拡げたように描かれています。もちろん彼女は架空の人物ですが、とてもリアリティを感じました。
さて、課題です。わたしは、こちらを読んでいます。
■「愛するということ」 新訳版 Kindle版 エーリッヒ・フロム (著), 鈴木晶 (翻訳)
他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。
( 「愛するということ」 新訳版 Kindle版 エーリッヒ・フロム (著), 鈴木晶 (翻訳) ( 第二章 愛の理論 3 愛の対象 3-d 自己愛 )
(中略)愛と自己愛とは、一方が多くなれば他方がそのぶん少なくなるという意味で、たがいに排他的である。
(中略)現代人の利己主義は自己愛と同じものなのか。
(中略)利己主義と自己愛の心理学的な側面について論じる前に、他人にたいする愛と自分にたいする愛とはたがいに排他的であるという考えが論理的に間違っていることを指摘しておく必要がある。隣人を一人の人間として愛することが美徳だとしたら、自分自身を愛することも美徳であろう。すくなくとも悪ではないだろう。なぜなら自分だって一人の人間なのだから。
自己犠牲を美徳とする感覚って、日本人にもなじみ深いものだと思いませんか。
困ったことや不快なことがあっても、自分が我慢をすれば丸く収まる、とばかりに、なるべく波風を立てないように、他人と同調して生きることって、結局のところ、自分に対する愛が足りてないってことの証明かもしれないなぁ。
今日も読んでくださってありがとうございます。
明日もどうぞよろしくお願いします。