ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に関連する聖書の物語を読んで、要約したり、自分の考えを整理したりなど。
旧約聖書「ヨブ記」のあらすじ
神に忠実であり人々からの信頼も厚く成功していたヨブを悪魔が陥れる。彼が本当に信頼に足る人物かを試すように神を唆した。神は悪魔の言葉を受けヨブの信心を試すことを悪魔に許す。結果、ヨブは死んだほうがマシだと思うほどの苦しみを味わう。因果応報だとヨブを責める友人たちに必死に潔白を弁明するヨブ。しかし弁明することは神を疑うことと謗られ、悪魔による言われなき試練を受け入れたとき、神はヨブを試すことを止める。(200文字)
考えたこと・学んだこと
ブラックコメディ
百科事典の解説によれば、ヨブ記は人生における苦悩の克服と祝福の物語、と定義されていた。結果がハッピーエンドだから神曲と同じく喜劇(コメディ)の分類になると思うが、現代的な意味でのコメディ(お笑い)要素もあった。例えば神と悪魔のやり取りや、ヨブと3人の友人たちのやり取りは、奇妙にねじれていてブラックコメディみたいだ。登場人物の感情が、家族や友人や会社でのすれ違うコミュニケーションにも似通った部分があって笑えた。
ヨブを心配して、慰めるためにやってきたという友人3人は、慰めるどころかヨブを批難し始める。彼らの価値観に照らせば、神は絶対的に正しく、間違ったことをしないのだから、数々の不幸に見舞われるヨブ自身に何らかの罪があると断罪する。でも読者は、ヨブは何も間違ったことをしなかったのに、罰せられていることを知っているから、友人たちの言葉に苦笑するしかない。だいたい、悪魔の口車に簡単に乗せられる神様っていう設定も笑える。
ヨブのようには生きられない
でも、この物語は現実世界の写し鏡になっているので、現代においても多くの人の心を惹きつけるのだろう。突然、予期せぬ不幸や不運に見舞われ、苦しむ人々は、いったいどうすべきなのか。最終的にヨブは、それまでの正しい行いと信仰心を、自分の言葉で強力に訴えたうえで沈黙し、呪いを解かれるのだが、ここから私のようなキリスト教信者ではないものが学べることは何だろうか。
聖書の物語だから、信者の人なら、神のやることを信じてヨブのように正しく生きれば最終的にはハッピーになれる、というメッセージを信じられるかもしれない。自分に全く非がないのに、困難な状況に直面して、ヨブのような苦しみを味わっている人々のなかには希望を持つ人もいるかもしれない。だが信者でない私は、自分はとてもヨブのようには生きられない、と思うのだ。
沈黙して悪を容認する
不条理に苦しむ人々が、すべてヨブのように痛みに耐えられるとは思えない。これは不当である、自分がこのような仕打ちを受けるいわれはない、と声をあげ、行動できる人は、どれほどいるだろう。呪いをかけられ、周囲から責められたら、私は間違いなく耐えきれずに折れるだろう。やっていないことも、やったというだろうし、悪くなくても、悪かったと謝るだろう。私はもっと強くなりたいと思うけれども、不条理な痛みに耐えられる強さを持てる自信がない。沈黙することは悪を容認することになる、と頭では分かっていても、私は語る言葉を持たないし、実際に行動できる気がしない。
単なる言い訳だし、開き直りだと分かっているけれど、でも私のような弱さを持った大多数の人間が、この社会を作っているのだと思う。だから私は大衆を信じられないのだ。周囲に流されて、沈黙し、罪の意識を感じつつも、悪を容認してしまう。私はヨブではなく、ヨブを責める友人であり、神をそそのかす悪魔の側にいる。
やらかしそうな6つの失敗
では、私はこの物語から何を学んだことになり、現実社会でいったい何を実践できるのだろうか。私は以下の6つのことを自分もやらかしてしまう可能性があることを自覚した。
- 不条理な痛みに耐えられない
- 罪の意識を感じつつ悪を容認する
- 周囲に流されて沈黙する
- 自分が正しいと思っても主張できない
- 正しい人を疑う(信じられない)
- 因果応報説に乗っ取って他人を責める
自分でもちょっと情けないと思う。でも、ここで立ち止まって開き直って「仕方がないじゃないか」と諦めてしまってはいけないのだろう。何なら実践できるか?他人が苦しんでいるときに不用意に因果応報説を持ち出して責めることは、何とか止められそうな気はする。でも、それ以外は、できるだけ努力したいとは思うけれど、その場になってみなければ分からないし、日和見主義の自分にはちょっと難しそうだ。
物語を描く力
いったいどこに解決策があるのだろう、としばらく考えていた時に、ふと気づいたのは、観察して書く力、物語を描く力が助けになるのかな、ということだった。
例えば、イワンは「カラマーゾフの下劣な力」でどんなことにも耐えていける、と皮肉に言うが、大審問官の物語を創作することで彼自身の心の均衡を保とうとしているようだし、政変によって故郷を追われたダンテは神曲を創作して、自分への不当な扱いを訴えた。アウシュビッツから生還したフランクル医師は、精神科医としての専門的な視点と関心を持っていたから、冷静に状況を観察し判断し続け、過酷な強制収容所での生活を耐えた。フランクルはキャンプに収容された初日に絶対に自死しないと決めている。(I made myself a firm promise, on my first evening in camp, that I would not “run into the wire.” [Frankl, 2006])伊藤さんは実名を公表して戦い、決して沈黙しない。(「沈黙は平穏をもたらすわけではない。少なくとも私は、沈黙して幸せになることはないのだ」 [伊藤詩織, 2022])佐藤さんは、東京地検に輸送される車内で、ユーモアを失わずに出来事を受け止め、記録することを心に誓う。
つまり、私があの6つの失敗をやらかさないために、今よりもっと強くなりたいと思うなら、面倒がらずに、もっと何かを書く練習をした方がいいということになる。ということで、これを、頑張って書いてみた。
参考
FranklE.Viktor. (2006). Man’s Search for Meaning. Beacon Press.
ダンテ・アリギエーリ, 平川祐弘(翻訳). (2008). 神曲 地獄篇. 河出書房新社.
ドストエフスキー, 亀山 郁夫 (翻訳) . (2012). カラマーゾフの兄弟2. 光文社.
伊藤詩織. (2022). Black Box. 文藝春秋.
佐藤優. (2009). 獄中記. 岩波書店.
日本聖書協会. (1995). 新共同訳 聖書(旧約聖書続編つき). 日本聖書協会.