わたしは、刺青や、タトゥーに興味を持ったことは、ほとんどない。
タトゥーに限らず、ピアスや、美容整形など、痛そうなものは、すべて私にとって縁のないものだ。
自分の身体に不要だから、他人がそういったものを必要とする理由がよく分からない。
といいつつ、大学生の頃、友人につられて、ピアスの穴は開けているのだ。
周囲に流され、まぁ試しにやってみようか、という気楽さで深く考えずに開けていた。
後悔はしていないけど、いくつも穴を開けている人をみても、同じようにしてみたい、という欲求を感じたりはしない。
この三つ(刺青、ピアス、整形)は同列に語れないのかもしれない。
でも、美なのか、あるいは、もっと違う何かを求めて自分を変化させたいという欲求の現れには違いないように思えるから、私のイメージのなかで繋がってくるのかも。
当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。誰も彼も挙(こぞ)って美しからんと努めた揚句は、天稟(てんぴん)の体へ絵の具を注ぎ込む迄になった。
「刺青」谷崎潤一郎(著)
「刺青」が出版されたのは1911年だが、物語の時代設定は江戸時代だ。主人公の清吉は、豊国(初代は1769-1825)や国貞(1786-1865)のような画風を持つ浮世絵師だったが、堕落して刺青師になったのだという。美しい者が強者だ、というのは、古今東西まったく変わっていない。江戸時代は刺青だったのかもしれないが、21世紀なら美容整形のほうが一般的かもしれない。
個人的には、抵抗感があるのだが、国によっても異なるものの、現代における美容整形の認知度は、かなり高いらしい。
みんな「美」に対する欲求度が高いんだなぁ、と最初は単純に考えていたけれど、これは「美意識」の問題ではなくて、権力欲や支配欲、自己顕示欲といった他者を支配したり、自分を高い価値があるように見せるための手段のひとつなんじゃないか、と思えてきた。
そして資本主義経済社会では、強力なお金儲けの道具のひとつでもある。
この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んで居た。彼が人々の肌を針で突き刺す時、真紅に血を含んで脹れ上がる肉に疼きに耐えかねて、大抵の男は苦しき呻き声を発したが、其の呻きごえが激しければ激しい程、彼は不思議に云い難き愉快を感じるのであった。
「刺青」谷崎潤一郎(著)
主人公の清吉は、美しい強者になりたい人に刺青を施すことで、ひっそりと彼の支配欲を満たしている。清吉は、自ら望んで彼の足元に身を投げ出す人ではなく、彼が選んだ特別な人を、彼の望む形に変化させたいという欲望も抱えている。
おそらく、清吉は人間を愛していない。
もうひとりの主人公は美貌の娘だが、この物語では名前を与えられていない。16歳か17歳くらいだが、美しく妖艶である。
紀元前1600年ごろの古代中国の帝国「夏」の最後の皇帝桀の妃、末喜(ばっき)のように、その美貌で男たちを狂わせるだろうと、清吉は初めて出会った彼女に語っている。
清吉は、卑劣な手段で彼女を陥れ、自分の長年の野望を達成する。
娘は麻酔薬をかがされて、意識を失くしている間に勝手に背中にジョロウグモの刺青を彫られてしまう。
えええええっ?って感じだが、美貌の娘さんは、「美しくさえなるのなら、どんなにでも辛抱して見せましょうよ」と言って、この非常識な事態もあっさり受け入れているように描かれている。
そのあたりの美的センスも、私にはちょっと理解しがたい。
清吉にとっての刺青は、自分の技を誇示して他人を支配する道具なんだと思う。
刺青を彫られた後の娘は、元来の美貌に加えて、新しい武器をもうひとつ手に入れたようなものなのかもしれない。
わたしは、他人を支配したくもないし、自分も支配されたくない。
そういう関係性は、健全性を欠き、精神を蝕む気がするから避けたい。
絵画などの芸術とか小説などの文学は、そういう健全な枠を外れたところでイメージを拡げてくれる部分があるから面白いし、学ぶところがあるのだと思うが、この作品もまさに、そんなかんじ。
刺青をする人の気持ちを知りたいなと、ふと思いついて、これを読んで、なんとなく分かったような気になっている。