「現代思想入門」千葉雅也著を読んだので備忘記録を残しておきます。本書付録の現代思想の読み方は、佐藤優「読書の技法」に通ずる部分もあり、「読書はすべて不完全である」という著者の言葉は、読んでもすぐに内容を忘れてしまう私には心の支えになります。また、それを念頭におきつつ、上手に手抜きして読むコツが伝授されているのも最高です。
タイトルが間違ってる
この本は、タイトルが間違っている。いや、間違っていないけど、もっと別のタイトルがふさわしい気がする。現代思想入門だと私のようにタイトルで怖気づいたり、自分には関係ない本だ、とそっぽを向く人も多そう。
実は私も、難しそうなタイトルで怖気づいていましたが、半強制的に読み始めてみると、著者の語りかけるような文体に肩の力が抜けました。難しいことを柔らかく伝わる文章にする技術、難解な本を読み解くコツまで伝授してくれる盛りだくさんの内容で、一粒で二度も三度も美味しい。お買い得な新書です。
「もっと自分も他人も、自由に気楽に生きても良いじゃない?」という著者からのメッセージが根底に流れていて、最後まで読むと解放感を味わえるのに、タイトルで食わず嫌いは、本当にもったいないないです。
以下は、本文から気になったところの抜粋と個人的な感想です。
高い解像度で見るために歴史的観点が大事
通常、権力という言葉は、強い者が一方的に弱い者を抑えつけ、支配するというイメージです。ところがフーコーは、「権力は下から来る」と言い、弱い者がむしろ支配されることを無意識的に望んでしまうメカニズムを分析し、実は権力の開始点は明確ではなく、それこそドゥルーズ的な意味で、多方向の関係性(と無関係)として権力が展開しているという見方を示しました。この考え方によって、社会問題を形成している背景の複雑さをより高い解像度で見ることができるようになります。権力は、逸脱した存在を排除し、あるいはマジョリティに「適応」させることで社会を安定させる。近代という時代は、そういう権力の作動に気づきにくくなるような仕組みを発達させました。この歴史的観点が、今の管理社会を批判するために必要なのです。逸脱を細かく取り締まることに抵抗し、人間の雑多なあり方をゆるやかに「泳がせておく」ような倫理、フーコーはそれを示唆していると言えるでしょう。(410文字)
(ここまでのまとめ)現代思想入門 (講談社現代新書) 千葉雅也 (著)
近代において権力が適応と排除を行った結果として、社会は整った。しかし排除されたものが不可視化された歪みが残った、という記述に、藤原辰史が著書「分解の哲学」で、ネグリとハートの「帝国」「コモンウェルス」を引用しつつ、現代社会の課題として超管理社会への疑問を提起していたのを思い出した。自分がどのような枠組みに取り込まれているのか、自分がすっぽりと内側に入り込んでいたら、それに気づくことは難しい。千葉が指摘するように、歴史的な観点から学ばなければならない。でも大変そうだなぁ。
ここにある貧困状態とボス支配を理想化することこそ、安価な労賃を求める<帝国>の養分である。清貧の思想は支配者の思想にすぎない。しかも、こういう見方がかえって、この世界のはたらきを見えにくくする
「分解の哲学――腐敗と発酵をめぐる思考」 藤原 辰史 (著)
物語に収まらない、ぐちゃっとしたリアル
秩序とは一般に、偶然性を馴致する、手懐けるものです。偶然を必然化する。「こうだったからこうだ」とわかるかたちにされているのが表の世界です。それに対して、わけもわからず要素がただ野放図に四方八方につながりうる世界が下に潜在している。二項対立、どちらか一方が優位で他方が劣位である二項対立によって物事をさばいていくのが表の思考ですが、それは言い換えれば、世界の物語化です。善と悪を分け、有用と無駄を分け、清潔と不潔を分け、愛と憎しみを分け、そこでの選択の迷いや希望や後悔をあれこれ語るのが「物語」であり、典型的な近代小説の構造です。しかし現代思想は、そういった物語の水準に留まっていては見えないリアリティが世界にはあるということを教えてくれます。無意味なつながり、あるいは無意味という言葉が強ければ、物語的意味とは別のタイプの意味、とも言えるでしょう。なかなかこれを考えるのは難しいかもしれませんが。(398文字)
(第四章 現代思想の源流 ニーチェ、フロイト、マルクス)現代思想入門 (講談社現代新書) 千葉雅也 (著)
子どもの頃、祖父母と一緒によく時代劇を観た。黄門様は絶対に負けない。祖母はプロレスも好きだった。そこには分かりやすい物語がある。日常生活では、こうはいかない。白黒はっきりしないグレーな部分だらけ。敵も味方も分からない。頭と心がこんがらがっている。だからこそ、人々は物語によって安心と快楽を得られる。意図的にリアリティから逃げているのだ。そこに無理やり目を向けさせようとするのが現代思想。なるほど。でも、現代思想は難解すぎて、一般の大衆は見向きもしないですよね。二項対立から逃れたとしても、そこに物語以上の快楽が得られないとしたら、人々は馴染みの物語の中にとどまり続けるだろう。ただ、私も含めて、無意味なつながりに快楽を覚える人々も間違いなく存在はしている。たくさんのそういう人たちがこの本に出会えたら良いだろうなと思う。
客観的に分析するためのモノサシ
たとえば暴走族はルールを破って駆け回るわけです。ところが、暴走族には厳しい上下関係があったりします。ですから、エネルギーを解放する方向とエネルギーを制限し有限化する方向の両方が見られるわけです。これは人間のあらゆる組織的活動に言えることで、また個人的に生活を律するときでもそうです。ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。あるいは「儀式」でもよいですが、儀礼の方がより抽象的ですね。ルーティンというのは儀礼です。なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない、たんにドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。人間は過剰な存在であり、逸脱へと向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸術でも政治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)。そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます。(511文字)
(第五章 精神分析と現代思想 ラカン、ルジャンドル)現代思想入門 (講談社現代新書) 千葉雅也 (著)
自分の生活はルーティンで成り立っているという自覚が私にはある。儀式のように毎日同じことを繰り返さなければ不安になる。ちょっと病的かな、と思っていたが、この部分を読むとそうでもないらしい。何年か同じ会社で働き続けた後にその仕事を辞めると、かなり解放感を味わえるのだが、これも有限化とエネルギーの解放の二重プロセスという見方に当てはまるのだろうか。
正当化する物語を作ろうとしない
ここは、私が一番こころに残った部分です。
ひとつの身体が実在する。そのことに深い意味はないーーーメイヤスーの絶対的偶然性の哲学は、おのれの謎=Xをめぐるアウグスティヌス的無限反省のその手前へ、というフーコーの方向性と密かに共鳴している。メイヤスー的に言えば、この身体はいつまったく別のものになるかもわかりません。古代中国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩壊して他の物質と混じり合う。メイヤスーはその生成変化よりもラディカルに、突然蝶になったっておかしくないとまで考えた(そのときには、今の世界から、私が蝶であるような世界へと、世界全体が変化する)。そうだとしても、というかだからこそ、今ここを生きるしかないのです。私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。(474文字)
(第七章 ポスト・ポスト構造主義)現代思想入門 (講談社現代新書) 千葉雅也 (著)
物理学者のカルロ・ロヴェッリ「時間は存在しない」を読んだとき、今、まさにここを生きるしかない、という思いを強くした。(この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである)千葉のこの文章を読んだ瞬間に、その記憶が浮かびあがり、左腕の五十肩が痛み(身体の故障は本当に勘弁して欲しいが、もし老化に伴う痛みを私が感じていなかったら、そこまでこの文章に惹きつけられなかったことも事実だ)、「そうだよね」と口走っていた。なんとなく自分の思考が肯定されたような気がしたからだと思う。いろいろなものへの執着を捨てれば、身軽になれる。
参考
1978年生まれの著者は哲学者であり、性的マイノリティであることも公表している。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。Twitterで自由に発言し、noteでも自身のコミュニティを持ち、市井の人々と自由に交流できる場を設けていらっしゃる。YouTubeで観た波頭氏との対談動画も参考になりました。
【千葉雅也×波頭 亮】人生は両極じゃない”脱構築”する生き方【Presented by Rethink PROJECT】
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫) ピエール バイヤール (著), Pierre Bayard (原著), 大浦 康介 (翻訳)