イソップ寓話にブドウ好きな狐の話がある。高い樹の上に実った美味しそうなブドウに手が届かなかった狐は、あれは酸っぱくて美味しくない、あんなのを取ろうとして時間をムダにするなんて、俺はバカだった、と言い訳をして自分を慰める。
似たようなごまかしをした経験は、誰にでもありそうだ。ごまかす、というと悪いことのようだが、心の痛みを和らげ精神の均衡を保つためには、必要な心理的機能(認知的不協和)のようだ。ただし、注意が必要なのは次の2つを区別することだと思う。
1.自分の能力(またはが努力)不足で結果が出せなかったのか?
2.メタ認知をしたうえで、現在の自分の実力では手が届かないと理解したのか?
イソップ物語に登場するキツネは、自分の能力を超えた場所にあるブドウを欲しいと思ってしまった。だから食べることを諦める選択をしたのは結果的に正しい。(自主的に選択したというよりは、そうせざるを得なかったのだが)問題があるとすれば、狐が事実をメタ認知(客観的に理解)できていないことだろう。
自覚することで他責を防ぐ
ブドウの味は食べていないから分からない。狐がブドウを食べられなかったのは、ブドウの味のせいではなく、狐がブドウの高さまでジャンプできなかったから。「あきらめる」という結果は同じ。でも思考回路が違う。
私たちは無意識に、論理のすり替えを行ってしまう。自分に問題があるのではなく、相手に問題がある、と。そうやって無意識に他責を繰り返した先には何があるか。他者への怒りや、憎悪に繋がるのではないか。他人は誰も自分を認めてくれない。そのうえ、自分自身も自分に非があることを認めたら、救いがない。そんなふうに考えてしまうのかもしれない。でも。。。歪んだ形で自分の姿をとらえ続けても、中長期的に考えると救われないのは変わらないのだ。
私は、キツネのように自分をごまかそうとしてきた。責任転嫁は無意味だと知識として分かっていても、なかなか感情の整理ができない。また、高望みをしないこと、現状を維持することが自分を守ることだと信じていた時がある。変化を起こす一歩を踏み出す勇気がなかった。
その後、異様に気力が充実していた時期があって、次々と新しいことにチャレンジしていたこともあったけど、今から考えると、あれも現実逃避の一種だったのかもしれない。中庸が理想的だなと思うのに、やらなさ過ぎたり、やり過ぎたり、どうもバランスがうまく取れないのだ。
最近、自分がかなり守りの姿勢に入っていることに気づいて驚いたのは、たまたま、イソップの「キツネとブドウ」を読んだことがきっかけだった。単純に、私の人生において、今は守りの時期だってことなのかもしれないけど、そうだとしても、キツネのように無自覚に認知的不協和に飲み込まれるのはイヤだから自戒しようと思って、ここに備忘記録を残しておく。
ところでキツネって、人間が物語を作ると、なんで悪者みたいにされちゃうんだろう?
参考
The Fox & the Grapes
The Fox and the Grapes by Aesop
A Fox one day spied a beautiful bunch of ripe grapes hanging from a vine trained along the branches of a tree. The grapes seemed ready to burst with juice, and the Fox’s mouth watered as he gazed longingly at them. The bunch hung from a high branch, and the Fox had to jump for it. The first time he jumped he missed it by a long way. So he walked off a short distance and took a running leap at it, only to fall short once more. Again and again he tried, but in vain. Now he sat down and looked at the grapes in disgust. “What a fool I am,” he said. “Here I am wearing myself out to get a bunch of sour grapes that are not worth gaping for.” And off he walked very, very scornfully. There are many who pretend to despise and belittle that which is beyond their reach.
《metaは、より高次の、の意》認知心理学の用語。自分の行動・考え方・性格などを別の立場から見て認識する活動をいう。
“メタ‐にんち【メタ認知】”, デジタル大辞泉, JapanKnowledge, (参照 2022-08-01)
「認知的不協和」は、イソップ童話にも見ることができる感情状態です。手が届かない高い木の枝にブドウを見つけたキツネが「どうせあのブドウは酸っぱくてまずい」と、ブドウをあきらめて立ち去ってしまう物語があります。この童話は、ブドウをあきらめたという自分の過去の行動を正当化するために、「ブドウはまずい」と好みが変化することを示しています。
心理学において、このような現象は「認知的不協和」という概念で説明されてきました。自分の過去の行動と自分の好みが一貫していない場合に、「認知的不協和」という不快な感情状態が引き起こされ、それを低減するために自分の好みを変化させると考えられています
「すっぱいブドウ」は本当か?(2010.12.21 玉川大学 脳科学研究所)
認知的不協和[心理学]cognitive dissonance
自己内に矛盾する認知を抱えた時に生じる不快感のこと。心理学者フェスティンガー(Leon Festinger 1919~89)が提唱した概念。認知的不協和を解消するために、自分を納得させられるような理屈や言い訳を考えて、態度や行動を調整する。
“認知的不協和[心理学]”, 情報・知識 imidas, JapanKnowledge, (参照 2022-08-01)
フェスティンガーふぇすてぃんがーLeon Festinger [1919―1989]
“フェスティンガー”, 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, (参照 2022-08-01)
アメリカの代表的な実験社会心理学者。ニューヨークに生まれる。アイオワ大学でレビンに学び、のちレビンが創始したグループ・ダイナミックス(集団力学)を発展させた。ミシガン、ミネソタ、スタンフォード、コロンビアの諸大学およびニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチNew School for Social Researchなどの教授を歴任している。彼の業績は、要求水準と意思決定過程、小集団におけるコミュニケーションと態度変容、集合住宅における対人関係と態度形成、社会的比較過程の理論など、広い領域にわたっているが、学界に多大の影響を与えたのは、『認知的不協和の理論』(1957)である。これは、人の意識を構成する認知的要素相互の間になんらかの不一致、不調和が生じると、不快な認知的不協和の状態になり、この不協和を解消ないし低減しようとして行動がおこったり認知的な変化が引き起こされたりするという理論仮説であり、これによって他者へのコミュニケーションやその他の働きかけ、ある種の態度変容のメカニズムが説明され、また多くの新しい研究分野の開拓や問題領域間の統合的理解が試みられた。
儒教の徳目。〈中〉は偏らず,過ぎたると及ばざるとのないこと,〈庸〉は平常,つまりあたりまえでコンスタントであること。儒教では忌憚のない直情径行を夷狄(いてき)の風としていやしみ,俗をおどろかすような(社会において突出するような)行為をきらって,庸徳庸行を尊ぶ。孔子は〈中庸はそれ至れるかな,民の能くすること鮮(すくな)きこと久し〉と嘆いた。それは形而上的な〈中〉に基礎づけられた徳であり,その獲得と実践には深い省察が要求される。
“中庸”, 世界大百科事典, JapanKnowledge, (参照 2022-08-01)